青木の出京その18
作品:青木の出京
作者:菊池寛
「実は明日の四時の汽車で帰るのだ。今度僕は北海道の方へ行くことになってね。今日実は君に会おうと思って、雑誌社の方へ行ったのだが……」と、いいかけて、彼は悄然として言葉を濁した。雄吉は明らかに青木が彼の憐憫《れんびん》を乞うているのを感じた。雄吉と同じく、極度に都会賛美者であった青木が、四、五年振りに上京した東京を、どんなに愛惜しているかを、雄吉はしみじみ感ずることができた。が、一人も友達のなくなった彼は、深い憎悪を懐かれているとは知りながらも、なお昔親しく交わった雄吉を訪《おとの》うて、カフェで一杯のコーヒーをでも、一緒に飲みたかったのであろう。雄吉は、青木のそうした謙遜な、卑下した望みに対して、好意を感ぜずにはおられなかった。が、そうした好意は、雄吉の心のうちに現れた体裁のよい感情であった。雄吉の心の底には、もっと利己的な感情が、厳として存在した。「明日の四時に帰る。しかも北海道へ」と、きいた時、彼は青木の脅威から、すっかり免れたのを感じた。明日の午後四時、今は午後二時頃だからわずかに二十六時間だ。その間だけ、十分に青木を警戒することは、なんでもないことだ。今ここで、手荒い言葉をいって別れるより、ただ二十六時間だけ、彼の相手をしてやればいいのだと思った。否、あるいはその一部分の六時間か七時間か、相手をしてやればいいのだと思った。
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:林めぐみ
1999年1月6日公開
2005年10月17日修正
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