青木の出京その69
作品:青木の出京
作者:菊池寛
「実は、あの小切手は青木が持っていたのです」と、雄吉は口まで迸《ほとばし》って出ようとする言葉を抑えつけながら、彼は懸命になって、自分の採るべき処置を考えた。天才と病的性格ということを、彼は思い出した。盗癖のある青木が、そうした欠陥にもかかわらず、輝いた天分を持っている。青木の、こうした天才を保護し守り育ててやることが、われら凡庸に育ったものの当然尽すべき義務ではあるまいかと、雄吉は思った。自分が近藤家から追われる! そのことによって、どんな損害を受けても、それは一人の天才の前途を暗くすることに比べれば、なんでもないことじゃないかと、雄吉は思った。ことに、体格の強壮な自分なら、苦学でもなんでも、やれぬことはない。これに反して青木、羸弱《るいじゃく》といってもよい青木にとって、苦学などということは、思いも及ばぬことだった。こう考えてくると、ロマンチックな感激と、センチメンタルな陶酔――それらのものを雄吉は、後年どれだけ後悔し、どれだけ憎んだかわからないが――とで、彼の心はいっぱいになった。――俺は、青木の罪を引き受けてやろう、そうすれば、青木も俺の犠牲的行動に感服して、その恐るべき盗癖から永久に救われるに違いないと雄吉は思った。むろん青木が帰宅して、彼が自分で責任を持って自首するといえばそれまでだが、ともかく、俺はひとまず青木の罪を引き受けて、この主人の部屋を出よう。主人は、俺の後影をどんなに蔑み卑しんで見送ろうとも、俺は一人の天才、一人の親友を救うという英雄的行動を、あえてなした勇士のごとき心持で、この部屋を出てやろう。雄吉はそう決心すると、不思議なほど冷静になって、
底本:「菊池寛 短篇と戯曲」文芸春秋
1988(昭和63)年3月25日第1刷発行
入力:真先芳秋
校正:林めぐみ
1999年1月6日公開
2005年10月17日修正
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